09 Mar 10

友人たちと会って話をしていると
歴史の話題になることがある。
女性でも歴史に興味があったり
また、すごく詳しい人もいて面白い。

当然、会津の幕末の話にもなるのだが、
私は、決まって司馬遼太郎の
『王城の護衛者』を読んだことがある?と
聞いてしまうのだ。
私は幕末の会津を取り上げた小説で
これほどの名作は他にはないと思う。
会津人たるもの、必ず、この本は
読まねばならぬとまで思っている。

この文庫本に興味を示してくれて
最後まで読んでくれそうな人には、
どういうわけか(正しくは、麗しき女性に限るのだが)
アマゾンからギフトにしてプレゼントしている。
その数、累計5名。
私、自称、「王城の護衛者」
読書普及協会・会長だもん。

もし、私も読んでみたいと思った女性は、
私にそれとなく、サジェスチョンをしてください。
プレゼントさせていただきます。
(但し、私と会ったことがある方ですよ)

そこで、本日は、「王城の護衛者」より
少しだけ引用させていただきました。
どうぞ、少しだけお読みください。

20070828-4061310488

会津松平家というのは、
ほんのかりそめの恋から出発している。
・・・・・・・
・・・・・・・
物堅さは、二代将軍秀忠の性質。
しかし、一度だけ侍女に手をつけた。
そして、すぐに妊った。
秀忠は、驚きすぐに遠ざけて市中にさがらせた。
正夫人 達子を怖れたのである。
達子、別称はお江、秀吉の側室淀君の妹である。
達子は、癇気が強く、秀忠もそれを怖れすぎた。
このため、ただ一度の浮気の相手を
市井に投げすてるように捨てた。
そこで生まれた男子が、のちの初代会津藩主保科正之なのです。
(秀忠との親子の初対面は、18年目の寛永6年。
その3年後に秀忠が死ぬ)

保科正之は、謹直な性格の男でした。
三代将軍家光の実弟であるにもかかわらず、
家光には、いっさい狎れず、よく仕えたので
家光もこの人物を愛し、臨終のとき正之ひとりを
病床によび、「宗家を頼む」といって死にました。
このときの正之の感動が、
その制定した会津の家訓になってあらわれています。
その第一条に「わが子孫たるものは、将軍に対し一途に励め。
他の大名の例を持ってわが家を考えてはならない。
もし、わしの子孫で二心をいだくようなものがおれば
それは、わしの子孫ではない。
家来達は、そのような者に服従してはならない」
という意味のことを書きます。
この時代の大名の家訓のなかで
将軍に対する忠義をこれほど烈しく説きこんだ例は他にありません。
そして、正之は家康の血統のなかでも
もっともすぐれた頭脳と政治能力を持っていました。
藩政を独特な政治学を持って整え、
藩士を教育し好学と尚武の藩風を作り上げ、
ほとんど芸術的といっていいほどの藩組織を完成し、
寛文12年62歳で死にます。
(正之は松平姓の下賜を再三辞退しており、
松平姓を名乗るのは三代正容からです)
・・・・・・・・・・・・・・

もう、10年くらい前です。
ある方に私の支配人日記を
読んでいただいており、
ご宿泊以前に、メールで何度か
お話をさせていただきました。
岐阜県の方でずいぶん年輩の方だと思います。
ホテルにお泊まりの時に
私にお土産をお持ちくださいました。
それがこの文庫本だったのです。
(結局、その方とはお会いしておりませんが)

でも、それ以来、その方とは、賀状のやり取りを
毎年、続けさせていただいております。
「王城の護衛者」のご縁だと思っております。

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